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小林秀雄「美を求める心」より

世界には、共通した特徴を持つ要素が同じような構造で関係しあっていることがあります。自然界には、一部の形は全体の形と共通するフラクタルという原理がありますが、それと同じことが形ある物質だけでなく、概念的にも存在します。

たとえば「北風と太陽」という童話がありますよね。北風は、力で旅人の上着を脱がせようと厳しい風を吹きつけたが、上着を脱がせることができなかった。いっぽう太陽が温かく光を照らし続けたところ、旅人は自分から上着を脱いで、太陽が勝負に勝ったというお話です。

この話の要点だけを抜き出すと、「力を使って、相手に期待する行動を取らせようとしてもうまくいかない。逆に、相手の気持ちを考えて、見守っていれば、相手は自分から行動を起こす」ということですが、これと似たようなことは、私たちが日常で体験する人間関係の中でも見つけることができます。

このような、同一構造の別の話を語ることで潜在意識に好ましい変化を学習させるためにメタファー(隠喩)を心理技術として用いることがありますが、今日は、私たちの意識や体験する世界を理解する助けとなる名文に隠されたメタファーをご紹介したいと思います。

文芸評論家の小林秀雄氏の著「美を求める心」にある文章です。
  

見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。

例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それはスミレの花だとわかる。何だ、スミレの花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるのでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。スミレの花という言葉が、諸君の心のうちに這入ってくれば、諸君はもう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。

  
ここでいう「言葉」「お喋り」とは、私たちが世界を見るときに無意識に採用している「解釈」や「前提」「信じこみ」のことを指しています。

「この人はこういう人」
「世の中こういうもの」
「普通はこうだ、こうあるべきだ」

といった解釈・前提・信じこみなどの”フィルター”を通してものごとを見るとき、私たちは、世界の美しさを見るのを止めてしまいます。
  

泣いていては歌はできない。悲しみの歌をつくる詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを美しい言葉の姿に整えて見せる人です。

詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるのでもない。一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えてしまう、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。

  
ここで表現されている詩人の姿は、私たちにひとつの生き方を提示してくれています。

自分の人生に起こる悲しみを、ただ嘆いたり避けようとするのではなく、しっかり見つめていくことでそこにある美しさに気づくことができる。ここで使われている「美しい姿」とは、世界の美しさであり、世界の美しさとは、シンプルに言うと「愛」の一言に尽きるのかもしれません。

どんなに深く悲しい出来事にも愛を見出す態度とは、高い意識レベルでの世界観です。すべての体験に愛や感謝できることがあり、つまり、すべての体験は良い・悪いなどとジャッジできるものではなく、ただ、必要なことが起きているだけ。

この世界観が腑に落ちて採用できると、そもそも同じ現実を見ていても体験する世界は変わり、そこから呼び起こされる内的反応が変わり、アウトプットとしての言動が変わり、結果として現実も好ましい方向に変化していきます。

「どの親から生まれたか」などのように、事実として変えられないことはあったとしても、体験する世界は自分次第で変えることができます。そのための在り方、世界に対する見方というものを、小林秀雄氏の名文は教えてくれているように思います。