何かをしてもらったり、受け取ったりして「ありがとう」と言う人は多いけれど、
何かをしてあげたり、受け取ってもらって「ありがとう」と言う人ってあまりいないかなーと思います。
これ、僕自身も最近気づいたのですが「与える」ことに感謝し始めたら、もう最強なんですよね。
誰かに何かをしてもらうのをまたなくても、自分から感謝の循環を創り出していけるからです。
そして、何かに新しい意味づけをすることは、無意識レベルで新たなセルフイメージ(自己認識)を育てるという意味もあります。
その新たなセルフイメージが現実に投影し、新しい現実を創っていくのです。
そもそも、「与える」ことに無意識レベルでどんな意味が付けているか?を考えたことはありますか?
その行動や態度にどんな意味を付けているかによって、その結果がポジティブなものになるか、そうでないかが左右されます。
自分は与えなければ(何か人に役に立たなければ)愛されない、認められない
与えること=自分のものが減ること、損すること
「与える」にこんな意味を付けていたら、与えれば与えるほどしんどくなっていきます。
あるいは、与えた後に相手がお礼を言ってくれたり、自分に対する承認や賞賛というフィードバックを返してくれるうちはいいけれど、それが返ってこないと「あの人は恩知らず」という怒りに変わったりするかもしれません。
あなたは、「与える」ことにどんな意味をつけていたのでしょう?
お釈迦様の有名なエピソードで、弟子たちに「お布施(寄付)をいただきに行く時には、貧しい者の家からまわりなさい」と説いていた、と言う話があります。
それは、
貧しい人たちを貧しい状態のままにしているのは物質的な欠乏が”本当の原因”ではない
と、お釈迦様が気づいていたからなのでしょう。
貧しい現実の”本当の原因”とは、「私には与えるものがない」という信じこみ。
そして、物質的な貧しさの中にある人々は「与える」体験をすることによって、その信じ込みが幻想であったことに気づくことができる。
お釈迦様の意図していたことは、そういうことだったのだと思います。
この世界観の中では、「与える」ことに「自分自身を豊かにしてくれるもの」という意味がついています。
「与えないと愛されない(認められない」
「与えることは、自分の持ち分が減ること」
などのような”ズレた”意味付けからではなく、シンプルな思いやりから「与える」ことをやっていくと、与えることは喜びであり、感謝できる体験であることがわかります。
与えることによって、相手が嬉しくなったり、安心したり、豊かな経験ができたらと想像すると、それだけで嬉しいですよね。
シンプルに、その喜びを経験できたことに感謝したらいい。
もちろんこれは「こうしなければならない」ということではなくて、ただそうしてみたら、人生はもっと豊かになると僕は思うのです。