今から6年前、僕が性別を変えて生きることを家族に打ち明けた時の話です。
父親は激怒し、猛反対。
まあこれは想定内でしたし縁を切られても仕方ないと思っていたので、ある意味楽だったのです(すでに手術して戸籍も変えていたので、反対されてもどうしようもないのですが^^;)
僕にとって何よりもつらかったのは、母親の反応でした。
打ち明けた時は拍子ぬけするほど、すんなり受け入れてくれたように見えたのですが、数日後に母親から便箋10枚ぐらい(!)の手紙が送られてきたのです。
「トランスジェンダーになるのは胎児期の母親の心理状態が原因だ」という説をどこかで見聞きしたらしく(この説の信憑性はわかりません)
「あなたがお腹にいた時、お母さんがこんなだったから、ごめんね」
という後悔、自分を責める気持ちが便箋にびっしりと書かれていました。ここまで感情的な母親の手紙を見たのは初めてで、想像以上に大きなショックを受けていたことを物語っていました。
自分の選んだ生き方で、自分に何かが起こるのはしかたがない。
でも、自分のせいで誰かを苦しめることがこれほど強烈に苦しいものなのか。
その時は自分自身が押しつぶされるような想いでした。
ひとりで泣きながら手紙を読んだあと、返事を書くことも「読んだよ」とメールすることもできず、すぐに捨ててしまったことを覚えています。
「自分の存在は親を苦しめるのだ」という罪悪感はひたすら苦しいばかりでしたが、いっぽうで「母親をこんなに苦しめているのだから、自分も苦しまなくてはならない」という想いもありました。
それからしばらくの間は自分を責め続ける毎日を送っていましたが、ある時ふと
「そうやって母親のために僕が苦しむことを、母親は望んでいるのだろうか?」
そんな想いが浮かんできました。
きっと母は、それを望んでいない。
僕のために母親が自分を責める姿を見て、母親のために僕は自分を責める。
そうやって僕が苦しむ姿を見れば、きっと母はもっと自分を責める。
こうなるともう罪悪感ループです。
母の苦しみを癒すことができるのは、僕が一緒に苦しむことではない。
僕が自分の選んだ生き方で幸せになること、その姿を見せることなのだと。
こうやってふり返ってみると当たり前のことですが、その体験のただ中にいると、自分では気づけなかったりするものですね。
それから僕はしばらく親と連絡を断ち(関わるとまた罪悪感ループが始まりそうだったので)、自分の生き方ややりたいことに集中することにしました。
少しずつ罪悪感を手放していくことで僕自身がまとう空気も変わったのかもしれません。母親が自責の言葉を口にすることはなくなり、父親も父親なりに応援の態度を示してくれるようになりました。もちろん複雑な感情はあると思いますが、その上で僕の生き方を受け入れようとしてくれていることは確かに伝わるし、今は家族にとても感謝しています。
状況は違えど、自分にとって大切な誰かを苦しめていたり、迷惑をかけている・・そんな罪悪感を抱いている方の中には、以前の僕のように「自分も罰を受けなければならない」という想いから自責している方もいらっしゃるかもしれません。相手が大切な存在であるほど、その想いは強くなるものです。
だけど相手のためを思えばこそ、自分をゆるし、自分が幸せになることをゆるすことが必要だ。
わかっていてもゆるせないなら、そんな自分をゆるす、ゆるそうとすることだ。
どんな自分もゆるすと決めて、小さな一歩ずつでも前に進んでいけたら、その相手はひとりでに癒されていく。
僕はそう思っています。
「自分をゆるすこと」はとてもシンプルだけど、難しく感じることもあります。一瞬でそれが訪れる人もいれば、時間がかかる人もいます。
でも、すぐにゆるせることが正しいわけではない。時間がかかったとしても、そのプロセスにも意味があるのだと思います。
自分にとっても、相手にとっても。