デヴィッド・R・ホーキンズ著「パワーか、フォースか」の意識レベル理論を実生活で活かす方法をお伝えしています

相手の怒りや悲しみの責任を引き受けない

今年は僕自身「生まれ直し」の1年だと感じていて(同じように感じてる人が多いかな?)、本当にもう「精神と時の部屋」※に入ったような毎日を過ごしてます。

※ドラゴンボールねたです^^;

 

そんな中、自分を癒しきるために宮古島に行って海に浸かったり、ちょくちょく高尾山に登ったり、リトリートの講座に参加したりしています。その今、参加してるリトリートの講師の人がめちゃくちゃ自由でおもしろいんです。

 

みんなで散策してる時にスイーツのお店があると受講生をおいて覗きに行っちゃったり、講座の休憩中にプリンを食べ始めたり、お店でお目当てのデザートがないとわかりやすくテンション下がったり、ほんとに無邪気な子どものように自然体。そしてそれで怒ったりする人もいなくて、講師がそれだけ自由でいるからこそみんなも自然体でリラックスして過ごしている。

 

この光景を“常識的に”みると「講師としてのふるまいにふさわしくない!」と怒っちゃう人がいてもおかしくないかもしれません。

 

でも、ここで少し考えてみてください。もし、そんなふうに講師のあり方に対して怒りを感じる人がいたとしたら、それは誰の責任だと思いますか?

 

その講師でしょうか。

 

それとも、その怒りを感じている本人でしょうか。

 

相手の怒りや悲しみの責任を引き受けない

「わがままに生きるほど幸せになる5つの法則」前回からの続きです。

※前回の記事を読まれていない方はこちら

 

僕たちは学校教育の中で、自分のふるまいによって誰かを悲しませたり怒らせたりしたら、その責任を取りなさいと教わって育ってきました。でもそれって、本当に人を自由にする考え方なのでしょうか。

 

僕の好きなニーチェの名言に

真実の追求は、それまで信じられていたすべての真実を疑うことから始まる

という言葉があります。

 

『真実とされてきたことを疑う』って本当に大切な態度だと思うんですね。

 

もちろん、誰かを悲しませたり怒らせたりした時に心から「ごめんなさい」と思う気持ちや、その気持ちを言葉で伝えることは尊い体験だとも思います。だけど、そうやって「ごめんなさい」を伝えることと、相手の怒りや悲しみの責任を引き受けることはまた別の話で。相手が感じている怒りや悲しみ、傷つき感はその相手自身の問題であり、それを乗り越えたり解決するのは相手自身の責任であり、自由なのです(なので、乗り越えない、解決しない自由も相手にある)。

 

そして、我があるままわがままに生きて現実的にもうまくいき、幸せに生きている人はそういった人の問題を引き受けていません。

 

問題であろうと可能性であろうと、その人の人生に起きていることはその人のもの。それを他の人間が取り上げたり引き受けたりできないし、しないことが本当の意味でその人を自由にしてくれると知っています。それが相手との間に【境界を引く】ということです。

 

僕が名前と仕事を変えて男性として生き始めた時、両親はひどくショックを受けて育て方が悪かったと自分自身を責めて苦しんでいました。その両親の姿を見て、僕自身も「自分のせいで親を苦しめている」という思いで心が押しつぶされそうになっていました。

 

でも、今になってわかることは、その頃の僕は
親自身の問題を引き受けよう
親自身の問題を奪おうと
していたんだな、ということです。

 

親が感じていた苦しみは、親自身の中にもともとあった思いこみや痛みから生じていたもの。それに向き合い、自分が何を大切にしたいのか?を選び、乗り越えていくのは親自身の問題であり、僕が引き受けることはできないししてはいけないと、今はそう思っています。

 

僕が両親との関係において経験したように、あなたが、我があるままに本当の想いに従って生きようとする時、怒ったり、悲しんだり、傷ついたりする人がいるかもしれません。でも、それはその人自身の問題であり、その問題を乗り越えるのは、その人の責任なのです。

 

これを「冷たい」と感じる人もいるかもしれませんが、僕はこの態度こそが相手に対する信頼であり、全ての人にとっての救いでもあり希望でもあると思っています。

 

まあ、とはいえ僕自身、今でも人の怒りや悲しみの責任を引き受けそうになったり、逆に自分の怒りや悲しみの責任を相手に押し付けたくなる時もあるのですけどね^^;

 

そのたびに「これは誰の問題か?」ということを自分に問い直しています。

 

この問いかけを習慣化するだけも人生はさらに自由になっていき、あなたが【我があるまま】に生きることをサポートしてくれるはずです。