人間関係の悩みは、事実と解釈を混同することから生まれることも少なくありません。
ところが、事実と解釈を区別する(事実だけみる)ことって、以外に難しい。
人は無自覚のうちに、”事実に解釈を加えたもの”を事実として誤認してしまいやすいものです。
たとえば、
「Aさんにラインを送ったけど、既読ついたのに返事がこない。嫌われてるのかな」とか。
「Bさんはいつも、冷たい目で私を見てくる」とか。
「この前Cさんと話していたら、急に顔色が変わって、会話が終わってしまった。怒らせちゃったかな」とか。
「Dさんに嘘をつかれた!あいつは俺をバカにしている」とか。
これらは全部、事実と解釈が混同している状態です。
事実として確かなことは、
「Aさんにライン送った。既読ついた。返事は今のところ来ていない」
「Bさんの目を見た」
「Cさんと話をした」
「Dさんの言ったことと、私の認識している事実が異なっている」
これだけです。それ以外のことは、すべて解釈であり事実ではありません。
そして、人はこの解釈に対して感情的に反応する時、怒り、苛立ち、寂しさ、傷つき感を感じるのです。
こういった解釈はなぜ生まれるのか?というと、パターンとしては、だいたいこの4つになります。
誰しも、自分のなかに振る舞いの基準というものを持っています。そして、自分の基準を他人に当てはめて、他人がその基準のとおりに振舞ってくれない時、ネガティブな解釈が生まれます。
例えば、「Aさんにラインを送ったけど、既読ついたのに返事がこない。嫌われてるのかな」と悩んでいる人の中には「メッセージをもらったら必ず返事をするもの」という基準があるのかもしれません。この自分の基準を相手にも当てはめて、相手がそのとおりに振る舞ってくれることを期待し、それが叶わないことで解釈が生まれます。
自分の基準というものは、自分にとっては当たり前すぎて、存在していることすら見落としてしまいがち。でも、人の基準は十人十色、違って当たり前なんですよね。
そもそも事実として”冷たい目”というものは存在しません。
では、「この人の目、冷たいな〜」と感じている時、何が起きているのか?というと、その人(冷たいな〜と感じている人)の無意識レベルで過去の記憶が蘇っているのです。
過去に「誰かに冷たくされたと解釈した体験」の記憶があり、その記憶が無意識レベルで呼び起こされ、その記憶に反応する形で「冷たい」と感じていたのです。
”顔色が変わった”という解釈の背景にあるのも、同じメカニズムです。
人は勘違いによって、意図せず、事実と違うことを言ってしまうことがあります。またもし仮に、意図的な嘘であっても、その背景に善意や悪意、あるいは恐れや寂しさなど、どんな心理があるかは”私”にはわからないものです。
にも関わらず、「相手の言っていることが事実と違った=嘘=悪意」と解釈してしまうのは、自分の中の恐れが刺激されているからかもしれません。
例えばそれは「相手から嘘をつかれることによって自分が傷つき感を感じる」ことへの恐れだったり、その嘘によって現実的な困りごとが引き起こされることへの恐れだったりします。
この場合、その恐れそのものが、今、”私”が本当に向き合うべきテーマだったりします。
そもそも無意識レベルで他人に対して「人は私を傷つける」「他人は冷たい」といった心理的な前提があると、無意識はその前提の”証拠集め”をしようとします。そして、他人のあらゆる言動にその前提に一致する解釈をつけて「ほらね、やっぱり人って・・・」と言いたがるのです。
ざっくりいうと、他人を性悪説で見ているということになります。
他人を「性善説で見ているか?」「性悪説で見ているか?」は、自分では気づきにくいもの。
そしてそれは、自分が体験している人間関係において、「どんな心理的前提の証拠集めをしようとしていたか?」という問いかけによって気づいていくこともできます。それに気づくだけで、事実と解釈の区別は始まっていきます。
人間関係で想い悩む体験に直面したら、
「今、事実として起きていることは何だろう?」
「私が認識していることのうち、どこまでが事実で、どこからが解釈だろう?」
このように自分に問いかけてみることで、心が軽くなることがあるかもしれません。
そしてそれをあなたが”本当のコミュニケーション”を体験する初めの一歩に変えていくこともできます。