相手の想いも自分の想いも等しく尊重し、伝え合い、わかりあうアサーティブコミュニケーションであなたの問題解決をサポートします

「かわいそうな人を助けたい」と思っている時、あなたが。

僕は児童相談所に勤めていたころ、よく「かわいそうな子どもたちのために頑張ってて、すごいね!」と言われたりしていました。

 
でも、なぜかそのたびにモヤっとしたものがありました。

 
「この子たちは、かわいそうな子なんだろうか?」とモヤモヤっとしていました。

 
もちろん親子にまつわる色んな場面を見てきたので、「かわいそうだな」と思う瞬間があったのは事実。

 
でも、その子まるごとを「かわいそうな子」だと定義してしまうのには違和感があったんですね。

 
その後、人の意識やそこから創られる現実の仕組みを理解するにつれて、その違和感の正体がわかってきました。

誰かを「かわいそうな人」と見て、その人を「救いたい」と思うとき。本当に救われたいと思っているのは自分自身だったりします。

 
その相手の中に”問題”(よくないと解釈したもの)を見ているのは自分自身だからです。

 
他人の中に”問題”が見えるのは、自分自身の中にあるそれが癒えていない時。

 
そして、そのかわいそうな誰かを救ったり助けることによって、自分自身を癒そうとしている時です。

 
あるいは誰かを「救ってあげたと思った」のに相手から感謝が示されなかったり、相手が「こちらの思うように救われてくれない」と苛立ちを感じてしまう時も、援助を私物化しているサイン。

 
だからその時は、その相手を助けようとするよりも、まずは自分自身を癒すことが先なんですね。

 
自分が癒されないままに誰かを救おうとして、その相手が「救われた」というフィードバックが得られると、一時的には自分が満たされたような、承認されたような感覚を覚えるかもしれません。

 
これは援助の私物化です。

 
でも、かわいそうな誰かを救って一時的に満たされたとしても、自分自身が根本的に癒されたわけではないので、また新たに「かわいそうな人」「救うべき対象」を求める。

 
そして無意識レベルで悪意なく、他人を「かわいそうな人」「救われるべき人」に仕立てあげてしまうんですね。

 
相手を「どのような人だと見るか?」が、その相手をそのような人にします。(教育心理学でいうところのピグマリオン効果)

 
誰かを「かわいそうな人」「救われるべき人」と見ることは、相手の可能性を狭めてしまうことにもなるのです。

 
特にコーチやカウンセラー、教育関係者などの対人援助職の方、子育て中の方など、このことを肝に銘じておく必要があると思います。

 
僕自身も、自分がクライアントさんのことをどう見ているか?ということには常に注意を払っています。

 
セッションを受けられる方の中には色んな境遇を乗り越えてきた方がいらっしゃいますが、僕はその方々に同情したり、かわいそうと思ったり、「救わなければ」と思うことはありません。

 
その一見、過酷にも見える境遇を体験することは、この方の人生にとってどんな意味や目的があったのだろう?

 
その問いを出発点にして、その人なりの答えを一緒に見つけていくことが、僕の役割だと思っています。