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使命を見つけるための2つの視点・後編|理性によって世界の根本法則を認知する

今日は前回記事の続きです。

 

啓蒙思想では、人間の理性を
【世界の根本法則を認知する力】であると考えます。

 

たとえば数学者が、定理を証明する時に使うのが理性です。

 

「将棋の神様にお願いするなら、なに?」
こう問われた藤井聡太竜王が
「神様がいるのなら1局、お手合わせをお願いしたい」と回答したことについて、社会学者の橋爪大三郎氏は
「藤井竜王は、数学者によく似た頭の働きをしている」と指摘しました。

 

人類がまだ証明できていない数学の定理が存在するように、「今まで誰も指したことのない将棋の最善の手」が存在する。このような前提が、藤井竜王の言葉に隠れていると橋爪氏は分析したのです。

 

この、藤井竜王や数学者が使っている理性、すなわち【世界の根本法則を認知する力】は、彼らのような“天才”と呼ばれる人々だけが持つ特殊能力ではありません。

 

理性とは、あらゆる人間に初期設定でインストールされているアプリのようなもの。

 

そして、この理性というアプリを正しく使うには、

私が考えるのではなく
【私の理性が考える】

私が勉強するのではなく
【私の理性が勉強する】

 

このような意識を持つことが大切だと、橋爪氏はいいます。

 

つまり、理性と自我を切り離し、純粋な理性のみによってこの世界の根本法則を認知するということです。

 

といっても抽象的すぎるので、これを僕なりに解釈すると

「理性は一人ひとりの人間に“与えられた”機能なので私物化してはならない

「自分のうちにも“与えられた”理性があることを信頼する

 

このふたつの態度を持ち合わせていることなのだと思います。

 

さらに、理性を機能させる方法を具体的に言うならば「下心を持たずにものごとを探究する」こと。その対象は何でもいいと思います。将棋や数学だけでなく、現在の自分の仕事、学問や趣味などあらゆるテーマにおいて、その領域における根本法則を「下心を持たずに探究する」のです。

 

これをやったらお金稼ぎに繋がるとか、誰かの歓心を買うことに動機づけられるのではなく、「純粋な好奇心や知的欲求」あるいは「誰かのために役立ちたい」という思いを起点とすることです。

 

否、下心はあってもよく、ただそれをいったん脇におき、自分のうちにある探究心に意識を向け続けることです。

 

下心を持たずに(脇に置いて)この世界の根本法則を探究することが、僕たちのうちにある理性を機能させる鍵となります。その過程は自ずと、使命と呼べるような人生を賭けるほどのテーマに繋がっていくことは少なくありません。

 

純粋な知的欲求から経典を求め、命懸けで旅をした玄奘三蔵のように。

 

好奇心は育てるもの

「好奇心を持てるものがない」
「飽きっぽく、興味・関心がひとつのものにずっと続かない」
そのように思う人もいると思います。

 
飽きっぽいという軽やかさはひとつの才能なので、それ自体はポジティブなものです。一方で「好奇心は育てるもの」でもあります。何事も、奥行きを知らずして本当の面白さを知ることはできません。

 
ほんの少しでも面白そうと思えるテーマがあるなら一段、深くそれを知ろうとしてみる。

 
そのためには、
「ノウハウ本だけではなく新書などの教養本や、専門的な解説書・入門書も読んでみる」
「知識を得るだけではなく経験によって学ぶ」
などのように、表面的ないし一般的に手に入る情報から一段、深くその対象を知るための行動を起こしてみると良いです。

 
「せっかく学ぶなら何かの役に立てよう」という下心は、好奇心の芽を摘んでしまいます。純粋に知ること、体験する喜びを味わうことが好奇心を育て、世界を探究するエネルギーに変わることを、忘れずにいてほしいと思います。

 

おわりに

僕は、全ての人が自分の使命に対して自覚的に生きるべきだ、とは思っていません。その人が自覚しているかどうかに関わらず、人は使命を生きるものであると信じています。

 

とはいえもちろん、ここまでお伝えしたことに意味がないわけでもない。「使命に対して自覚的に生きる」と覚悟を決めた人だけが経験できること、見える世界があるからです。

 
今回のメールが、使命に対して自覚的に生きたいと願う人にとってのひとつの手がかりになれたら、嬉しく思います。